大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

水戸地方裁判所 平成7年(行ウ)4号 判決 1999年3月24日

原告

村上長子

右訴訟代理人弁護士

足立勇人

被告

水戸労働基準監督署長

渡辺光雄

右訴訟代理人弁護士

二井矢敏朗

右指定代理人

中垣内健治

外八名

主文

一  被告が原告に対し平成二年三月一日付けでした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文と同旨

第二  事案の概要

本件は、訴外株式会社茨城新聞社(以下「訴外会社」という。)に使用される労働者であった亡村上康雄(以下「康雄」という。)が自宅で高血圧性脳出血で倒れ(以下「本件発症」という。)、搬送された病院で死亡したことは業務上の死亡にあたるとして、同人の配偶者である原告が被告に対し労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償給付及び葬祭料の各支給を求めたところ、被告により右死亡は業務上の事由によるものとは認められないとして、不支給の処分がなされたことから、右処分の取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実等

1  被災者の経歴等

原告の配偶者である康雄(昭和二四年六月二八日生)は、昭和四九年三月に大学を中退後、家業手伝い、東京都内の出版社勤務を経て、昭和五五年五月一日から訴外会社開発局出版課に嘱託として採用され、昭和五七年四月に正社員として採用されて同課に配属され(なお、同課は、昭和六〇年四月に「茨城新聞出版センター」と改組された。以下では、右改組の前後を問わず「出版センター」ということとする。)、以後同センターの編集者(昭和六〇年一一月からは、同センターの主任)として業務に従事していたものである。

2  出版センターの労働時間・労働環境等

出版センターの業務は、一般書籍・自費出版物の制作及び広告、カタログ類の企画立案であり、本件発症当時の人員構成は、センター長である平沢浩三、主任の康雄、正社員の寺門次郎及びアルバイト職員若干名であった。

訴外会社の就業規則(乙第一一号証)によれば、訴外会社の勤務時間は、一日の拘束八時間(一時間の休息を含む。)で、出版センターの所定労働時間は午前九時から午後五時となっていたが、時間外で労働することは常時であった。また、休日は、週一日(ただし月一回週二日となる。)の外、年末年始及び夏季休暇(合わせて六日)、新聞休刊日を含む祝祭日であった。

3  康雄の業務内容

出版センターにおける康雄の業務は、①企画立案から計画作成、進行管理、原稿依頼、執筆の助言、②アルバイトの管理、③校正作業、外部の校正マンの管理、④印刷会社との交渉、⑤計数管理、⑥出版物の広告・宣伝・販売・発送・代金回収など広範囲にわたっていた。

4  本件発症から死亡までの経過

康雄は、昭和六三年二月一九日午後四時ころ、翌日の亡父の法事の準備のため早退したが、午後五時ころ、水戸市内の実家に訪れていた原告に対し電話で「気分が悪い。」と告げ、原告が約一五分後に自宅に戻ったときには、下着姿のまま意識を失って布団の上に倒れており、直ちに水戸済生会総合病院脳神経外科で治療を受けたものの、血圧(以下では、血圧値を「(収縮期の数値)/(拡張期の数値)」で示すこととする。単位はいずれもmmHgである。)一九二/一二〇、チアノーゼ、呼吸困難、対光反射なし、徐脳硬直という状態であり、頭部CT所見等から高血圧性脳出血(視床出血)と診断され、既に手術の適応状態になかったことから、保存適応療法のみ行われ、翌二〇日午後六時一二分に脳出血により死亡した。

5  本件処分等

(一) 原告は、平成元年二月二〇日、被告に対し、康雄の死亡は労災保険法七条一項一号に規定する業務上の死亡であるとして、同法一六条による遺族補償給付及び同法一七条による葬祭料の支給を求めたところ、被告は、平成二年三月一日付けで康雄の死亡は業務上の事由によるものとは認められないとして不支給の処分(以下「本件処分」という。)をし、原告に通知した。

(二) そこで、原告は、本件処分を不服として、茨城労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたが、右審査官は、平成三年三月八日付けで右審査請求を棄却する旨の決定をし、原告に通知した。

(三) 原告は、右決定を不服として、労働保険審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は、平成六年一一月一七日付けで再審査請求を棄却する旨の裁決をし、原告に通知した。

二  争点

康雄の死亡が業務上の事由によるものか。

三  争点に関する当事者の主張

1  原告の主張

(一) 康雄の勤務状況

康雄の昭和六二年七月一日から昭和六三年二月一九日までの勤務状況は、別表「村上康雄勤務時間実績表」に記載のとおりである。

康雄は、昭和五五年就職時から残業が多く、年間総実労働時間が三〇〇〇時間を超えることがほとんどで、在職九四か月中、四二か月において残業が月一〇〇時間を超え、疲労が慢性的に蓄積していた。

昭和六二年七月ころ、「茨城人事録一九八八」(以下「人事録」という。)の編集作業が本格化し、加えて「高校野球グラフ」の編集作業が同時進行していたため、残業時間は、同年七月が128.5時間、同年八月が一二八時間、同年九月が九九時間、同年一〇月が一四〇時間、同年一一月が208.5時間、同年一二月が66.5時間、昭和六三年一月が92.5時間と異常なほど長時間となっており、更に、昭和六二年一〇月から同年一二月までの三か月間は、公休日も出勤しており、実質的には、一か月一七〇時間から一九〇時間の超過勤務をすることになった。

特に昭和六二年一〇月からは、東京都内の大日本印刷出版株式会社内の出張校正室において出張校正を行うこととなり、都内の宿泊先ホテルから毎日右出張校正室に通い、その後三か月間連日の缶詰状態で校正業務に追われることとなった。しかも、東京における出張校正についての責任は、康雄一人に課せられ、本来の編集業務の外に十数名のアルバイトの人事管理も抱え込み、正確さを要求される校正作業を深夜まで続け、食事も仕出弁当で済ませ、休憩時間もないというような超過密勤務であり、睡眠時間も最大で四、五時間という状態であった。

また、昭和六三年に入ってからも、人事録の仕上げのために忙殺され、何度か東京への短期出張を繰り返し、帰宅後も仕事を続けるといった状態であった。これに加え、同年一月から翌二月にかけては、「山村暮鳥全集」の企画案作成の作業があり、他の競争出版社を制してこれを受注できるかどうかの瀬戸際の状態にあった。

(二) 康雄の健康状況

康雄は、昭和六一年九月の定期健康診断において高血圧症状が認められたため、同月二四日に水戸済生会総合病院を受診したが、二三〇/一四二と異常な高血圧、心臓肥大、大動脈硬化が見られたことから、同病院院長から入院するよう勧められたが、仕事に追われ、入院どころではなかったから、通院して降圧剤の投与を受け続けることとした。しかし、昭和六二年に入ってからは、仕事に忙殺され、通院することもあまりできなくなったことから、康雄に代わって原告がほぼ一か月毎に四週間分の降圧剤を同病院に受け取りに行くといった状態であった。

一か月の残業時間が一〇〇時間を超えていた昭和六二年一〇月、康雄は、突然の腹痛のため、自宅近くの北水会病院において受診した際、血圧が二二〇/一四〇という異常な値を示したことから、同病院の医師から直ちに入院するよう勧められ、また、同月一五日の筑波大学附属病院における検査でも、高血圧の原因は不明であるが一か月の入院を要するものと診断された。しかしながら、康雄は、人事録の発行予定日が既に決められていたことに加え、康雄以外に人事録の編集校正を指揮監督できる者がいなかったことから、すぐに入院するわけにはいかないと判断し、東京での長期出張生活に入ったものである。

このため、康雄は、満足な治療も受けることなく、東京での異常な残業を強いられる勤務に就き、極度の疲労及びストレスを蓄積し、顔色がさえず、立ち上がる際にはよろける等し、更には原因不明の左顔面の腫れがおこる等、第三者から見ても明らかに身体の異常が認められる事態となった。高血圧症に罹患していた康雄としては、もはや緊急入院すべき事態に至っていたが、その責任感から、人事録編集校正作業の途中で入院するわけにも行かず、結局、長期出張以降の業務は、康雄にとって著しい精神的肉体的負担を及ぼし、基礎疾患を急激に増悪させたものである。

また、昭和六三年一月も一〇〇時間を超える残業が続き、健康的生活習慣が破壊され、通院治療も困難となった。同年二月の残業はそれほど多くはなかったが、同月以降も「山村暮鳥全集」の企画案作成の作業のため、編集者である康雄としては入院もできず、蓄積した疲労を解消できないままであった。

(三) 康雄の死亡の業務起因性

康雄は、昭和六一年ころから高血圧症に罹患し、降圧剤の服用により治療を継続してきたが、そのため動脈硬化症に罹患していたと推定される。昭和六二年一〇月以前は、通院等により小康状態にあったとも考えられるが、同月からの大日本印刷株式会社内での校正業務は、右治療を中断させただけでなく、緊急入院を諦めざるを得ないほどの超過密業務であり、公休日に休暇をとることもできないほどの過酷な業務であったのであり、基礎疾病を有する康雄にとって著しい精神的肉体的負担となったことは明らかである。このため、康雄は、高血圧症、動脈硬化症を急激に増悪させ、極度の過労及びストレスが同人の本件発症の原因となったのである。

以上によれば、康雄の本件発症による死亡が業務に起因することは明らかである。

(四) 認定基準について

被告は、労働省労働基準局長が通達で定めた「認定基準」(なお、昭和三六年二月一三日付け基発第一一六号の通達で示された認定基準は、昭和六二年一〇月二六日付け基発第六二〇号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(以下「旧基準」という。)で改訂され、旧基準は、平成七年二月一日基発第三八号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」(以下「新基準」という。)で更に改訂された。)を形式的にあてはめた上で本件発症の業務起因性を否定して本件処分を行ったのであるが、右認定基準には医学的合理性はなく、多くの裁判例においても、右認定基準よりもより柔軟に、当該被災労働者の具体的な生活環境や基礎疾病、長期間にわたる業務の質的・量的内容等を総合的に判断して業務の過重性を判断し、必ずしも医学的見解に拘泥することなく、経験則に照らして業務と発症との相当因果関係の有無を判断しているのである。

よって、右認定基準を根拠として業務起因性を否定することはできない。

2  被告の主張

(一) 業務起因性について

(1) 業務起因性の意義について

労働者災害補償の対象である業務上の疾病であるというためには、当該疾病が業務に起因していること(業務起因性)が必要であり、業務起因性があるというためには、単に当該業務に従事していたことにより当該疾病が発生したという条件関係があるというだけでは足りず、当該疾病の発症が当該業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化であると認められる相当因果関係が必要である。そして、当該疾病の発症の原因が複数競合している場合に、当該疾病が当該業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化と認められる関係にあるというためには、当該業務が当該疾病に対し他の原因と比較して相対的に有力な原因となっていることが必要である。この場合、当該業務が他の原因と比較して相対的に有力な原因となっているといえるためには、当該業務が当該事案において相対的に有力であるか否かのみならず、客観的に他の事案にあてはめても発症の有力な原因になるであろうと認められることが必要である。

(2) 脳血管疾患と業務起因性

外傷による場合以外の脳血管疾患は、個人的素因たる動脈硬化、動脈瘤等による血管の病的変化ないし基礎的病態が加齢や日常生活等における種々の要因によって進行、増悪して発症に至るものがほとんどである。また、脳血管疾患の発症と医学的に因果関係のある特定の業務が存在することも医学上証明されていない。

したがって、脳血管疾患が業務に起因することの明らかな疾病であるとされるためには、いわゆる私病増悪型の疾病として、業務による明らかな過重負荷によって、血管の病的変化がその自然的経過を越えて発症したものと医学的に認められることが必要である。すなわち、日常業務を越える業務による明らかな過重負荷によって急激な血圧変動や血管収縮が引き起こされ、これによって血管の病的変化がその自然的経過を越えて急激に著しく増悪し、発症に至った場合にはじめて、業務が相対的に有力な原因であると判断され、脳血管疾患が業務上の疾病とされるのである。

(3) 脳血管疾患及び虚血性心疾患の認定基準について

各種の業務上疾病の範囲については、労働基準法施行規則別表第一の二に掲げられているが、各疾病についての発症の条件等を全て詳細に法文化することは困難であり、また、医学的知見の進展に対処できるようにするため、一定の簡略な表現にとどめられている。そこで、労働省労働基準局長が、補償給付請求者の立証責任を軽減し、各労働基準監督署長による認定事務の促進及び均質性を確保する見地から、法令の運用に当たって必要な判断の基準を通達の形で明示したものが「認定基準」である。

(4) 旧基準について

① 旧基準によると、業務に起因することの明らかな脳血管疾患及び虚血性心疾患等とは、次のa及びbのいずれの要件をも満たすことが必要とされる(以下「認定要件」という。)。

a 次に掲げるイ又はロの業務による明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められること。

イ 発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関連する出来事に限る。)に遭遇したこと。

ロ 日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと。

b 過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が、医学上妥当なものであること。

② また、旧基準に付された「解説」によれば、認定要件の運用基準は、次のとおりである。

a 「過重負荷」とは、脳血管疾患及び虚血性心疾患等の発症の基礎となる病歴(血管病変等)をその自然経過を超えて急激に著しく増悪させ得ることが医学経験則上認められる負荷をいう。ここでの自然経過とは、加齢、一般生活等において生体が受ける通常の要因による血管病変等の経過をいう。

b 「異常な出来事」とは、具体的には次に掲げる出来事である。

(イ) 極度の緊張、興奮、恐怖、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常な事態

(ロ) 緊急に強度の身体的負荷を強いられる突発的又は予測困難な異常な事態

(ハ) 急激で著しい作業環境の変化

c 「日常業務に比較して、特に過重な業務」とは、通常の所定の業務内容等に比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務をいい、その判断については次によること。

(イ) 発症に最も密接な関連を有する業務は、発症直前から前日までの間の業務であるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かを、まず第一に判断すること。

(ロ) 発症直前から前日までの間の業務が特に過重であると認められない場合であっても、発症前一週間以内に過重な業務が継続している場合には、急激で著しい増悪に関連があると考えられるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かを判断すること。

(ハ) 発症前一週間より前の業務については、急激で著しい増悪に関連したとは判断し難く、発症前一週間以内における業務の過重性の評価に当たって、その付加的要因として考慮するにとどめること。

(ニ) 過重性の評価に当たっては、業務量のみならず、業務内容、作業環境等を総合して判断すること

(5) 新基準について

新基準は、旧基準の認定要件はそのまま引き継いで、認定要件の運用基準について改正を加えたものであるが、本件に関係する部分の改正点は、次のとおりである。

① 業務の過重性の評価について、旧基準では、これを客観的に評価するための業務が同僚又は同種労働者にとっても特に過重であることとし、同僚等に一般的な労働者を想定していたが、新基準では、年齢、経験等をも考慮することとした。

② 旧基準では、発症前一週間より前の業務については付加的要因として考慮するにとどめることとしていたが、新基準では、発症前一週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には、発症前一週間より前の業務を含めて総合的に判断することとした。

③ 業務の過重性の評価について、旧基準では、業務量、業務内容、作業環境等を総合して判断することとしていたが、新基準では、業務内容をより適正に評価するため、所定労働時間内であっても、日常業務と質的に著しく異なる業務に従事した場合における業務の過重性の評価に当たっては、専門医による評価を特に重視し判断することとした。

④ 業務による継続的な心理的負荷によって発症したとして請求された事案で医学的判断が特に困難なものについては、旧基準では、本省にりん伺することとしていたにすぎないが、手続を明確にして積極的な対応を図るため、新基準では、本省において医学的事項についての検討を行い、個別に適切な判断を行うこととした。

(二) 康雄の業務内容について

康雄は、本件発症当時、責任者として携わってきた人事録の制作を終え、「高校入試の総仕上げ」と題する中学三年生向けの学習参考書(以下「入試問題集」という。)の発刊準備、茨城県発行予定の「いばらきの川」の編集等の業務に従事していた。

人事録は、茨城県内の各界で活躍している者のプロフィールを収録し、四年毎に発行される刊行物の一九八八年度(昭和六三年度)版であり、その制作作業が昭和六二年七月ころからピークに入ったため、康雄はこれにかかりきりとなり、同年一〇月二五日から同年一二月二六日までの間、出張校正を東京都内の大日本印刷株式会社内の出張校正室において、右印刷会社から派遣された校正マン及び東京で雇い入れた臨時従業員を監督しながら進行を管理するとともに自らも校正作業に従事した。人事録は、昭和六三年一月二九日に完成した。

(三) 発症七日前より以前の勤務状況

(1) 昭和六二年一一月の実労働時間は338.5時間、そのうち時間外労働時間が一〇八時間、休日労働が69.5時間であった。この間の一日当たりの実労働時間は11.3時間、そのうち時間外労働が4.7時間、休日労働が9.9時間である。

(2) 同年一二月の実労働時間は325.5時間であって、そのうち時間外労働時間が一〇四時間、休日労働が32.5時間であった。この間の一日当たりの実労働時間は10.9時間、そのうち時間外労働が3.9時間、休日労働が10.8時間である。

(3) 昭和六三年一月のうち一日から一一日までの実労働時間は82.5時間であって、そのうち時間外労働時間が二四時間、休日労働9.5時間である。この間の一日当たりの実労働時間は10.3時間、そのうち時間外労働が3.4時間、休日労働が9.5時間である。

(4) 同年一月一二日から同年二月一一日までの間の実労働時間は252.5時間、そのうち時間外労働は六〇時間、休日労働は10.5時間である。一日当たりの実労働時間は9.4時間、時間外労働は2.3時間である。

(四) 発症前七日間の勤務状況

昭和六三年二月一二日は、人事録の残務整理を行ったが、所定時間外労働はしていない。

同月一三日は、定時に退勤後、寺門と社外で打合せをし、午後一一時ころに帰宅した。

同月一四日は、公休日であり、休務した。

同月一五日は、人事録の残務整理の外、入試問題集の刊行準備を開始した。所定時間外労働はしていない。

同月一六日は、入試問題集の入稿準備及び「いばらきの川」の編集打合せを行った。所定時間外労働はしていない。

同月一七日は、部会、編集会議等のため、三時間三〇分の所定時間外労働を行った。

同月一八日は、人事録の残務整理及び入試問題集の入稿準備を行い、午後六時から株式会社IBSサービスの招きに応じて、平沢及び寺門とともに前年六月出版の入試問題集の制作の打上げ会に出席して水割り二、三杯を飲み、更に二次会にも出席して飲酒した後、翌日の午前零時ころ帰宅した。

この一週間の康雄の実労働時間は45.5時間であり、そのうち時間外労働は合計3.5時間であった。また、一日当たりの労働時間は7.6時間である。

(五) 発症当日の状況について

康雄は、同月一九日(金)の朝、疲労の様子で朝食を取らずに出勤し、出版センターにおいて、人事録の残務整理その他の通常業務を行った後、午後四時ころ退社した。

(六) 康雄の健康状態について

(1) 康雄は、十代のころから高血圧症があったが、昭和五九年一一月一九日に行われた定期健康診断において、血圧が一八二/一二四と高い数値を示したため、水戸協同病院で投薬治療を受けた。また、昭和六一年二月二〇日の定期健康診断においても、一六四/一〇八の高血圧を指摘されている。

(2) 康雄は、昭和六一年九月二四日、頭重感、肩こりのため水戸済生会総合病院で受診した際、血圧が二一四/一四二と高度に上昇していたので、医師から入院治療を勧められたが、これに従わず、通院して治療を受けることとし、以後昭和六二年五月八日までの間に、初診を含め七回にわたり医師の診察を受け、その都度、降圧剤の投与(初診時は七日分、二度目の診察時には一四日分、三度目の診察時以降は一回につき二八日分。)を受けていた。しかし、康雄は、同日以降は、自ら病院に通うことなく原告に降圧剤を受取りに行かせ、しかも、一回に受け取ることができる降圧剤は二八日分であるにもかかわらず、原告が病院にそれを受取りに赴いたのは約四〇日ないし五〇日おきであった。

なお、同病院において受診した際の血圧の測定値は、次のとおりである。

昭和六一年一〇月一日 一七八/一二四

同年一〇月二九日 一八四/一二四

同年一二月一〇日 一五四/一一六

昭和六二年一月七日 一五四/一〇二

同年三月二〇日 一六二/一〇〇

同年五月八日 一六四/九二

(3) また、康雄は、昭和六二年一〇月七日、腹痛のため北水会病院で受診した際にも、二二〇/一四〇の異常高血圧を示したため、同病院の医師から異常高血圧の危険性について説明を受けた上、筑波大学附属病院で精密検査を受けるよう勧められた。そこで、同月一五日に同病院で診察を受けたところ、血圧値が座位一九〇/一四〇、起立直後一七〇/一一〇、起立五分後一八〇/一三〇と高い数値を示したため、同月二三日同病院で腹部超音波検査を受け、その六日後の再診の予約をしたものの、その後は一度も同病院を訪れなかった。

(4) 昭和六三年は通院歴がなく、薬も処方されていない。

(5) 康雄の喫煙量は、一日二〇本程度である。

(6) なお、康雄は、前記出張校正のため上京中であった昭和六二年一一月ころ、発熱とともに口唇部が腫れ上がったため、東京の山桝病院を受診したが、これは原因不明のアレルギーによるものと診断されている。

(七) 本件処分の適法性

(1) 本件においては、本件発症当時に適用されていた旧基準のイ又はロの各要件(前記2(一)(4))に該当する事実が認められない。

すなわち、右イの要件については、康雄が発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る「極度の緊張、興奮、恐怖、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予想困難な異常な事態」及び「緊急に強度の身体的負荷を強いられる突発的又は予測困難な異常な事態」に遭遇した事実は認めることができず、さらに「急激で著しい作業環境の変化」という事実も認められない。

また、右ロの要件に関しても、発症前二四時間以内の業務についてみるに、発症当日は通常の業務を行い、翌日の私用に備え、所定就業時間よりも一時間早い午後四時ころに早退しており、当日の業務を過重であったとみることはできないし(康雄は、本件発症日前日午後六時ころから深夜帰宅するまで訴外株式会社IBSサービスの社員らと飲食会及び二次会に参加し飲酒していることが認められるが、康雄は招待された側であるから、これによる過重負荷があったとみることはできない。)、本件発症前一週間の業務についてみても、昭和六三年二月一二日以降においては、公休日である同月一四日以外の出勤日に通常の業務に属すると認められる人事録の残務整理、新規出版物編集の準備等の作業を行っており、その間、所定時間外労働は、同月一七日の三時間三〇分のみであり、したがって、この間において過重な業務が継続した状況にあったといえない。

(2) また、本件発症後の新基準によっても、本件発症は業務に起因するものとは認められない。

① すなわち、新基準においては、発症前一週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には、発症一週間前の業務を含め、総合的に判断することとされたが右に述べたように、本件発症前一週間の業務が日常業務を相当程度超えていたとはいえない。

本件発症前一週間を超える期間である同年二月一日から同月一一日までに出勤した一〇日間を見ても、康雄は、人事録の発送等の残務整理を行っていたものであり、同期間の所定時間外労働は一四時間三〇分であって、この期間の業務が過重負荷とみることもできない。

また、康雄は、昭和六二年七月ころから人事録の編集にかかり、同年一〇月二五日から同年一二月二六日までの約二か月間にわたり東京に出張し、人事録の校正作業に従事した際、相当長時間業務に拘束されていたことが認められるが、康雄は、校正マンに対して指揮命令する立場にある上、校正マンもその給料の額に照らすと、校正については専門的知識を持ち習熟していたことが窺われるのであるから、右指揮命令が格別過重負荷であったとは認められないこと等の事情に照らせば、右編集校正の作業が本件発症の起因となったものということはできない。

② また、新基準によれば、業務の過重性を客観的に評価するため、年齢、経験などを加味した同僚労働者等との比較により判断すべきものとされるが、康雄と同種同等の作業に従事していた寺門にとっても本件発症前一週間の業務が特に過重な業務であったと認めるべき事実はなく、康雄が特に重い作業内容を課せられていたとは認められない。

(3) 前述のように、康雄には、若年性高血圧の症状があり、昭和五九年ころから高血圧症の投薬治療を受けていたものであるが、血圧が昭和六一年九月ころには二一四/一四二、昭和六二年一〇月ころには二二〇/一四〇と異常に高い数値を示し、医師から入院治療を勧められていたことが認められ、他方、康雄の業務については、前記のとおり過重負荷の事実が認められないのであるから、康雄の死因となった本件発症は同人の本来有していた高血圧症が業務以外の原因により急激に悪化したために生じたものと考えられる。

したがって、本件処分は、適法である。

第三  争点に対する判断

一  業務起因性の判断基準

1  労災保険法七条一項一号にいう「業務上の死亡」及び労働基準法七九条、八〇条にいう「労働者が業務上死亡した場合」とは、労働者が業務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、単に死亡の結果が業務遂行中に生じたとか、あるいは死亡と業務との間に条件関係があるというだけでは足りず、これらの間に法的にみて労災補償を認めるのを相当とする関係(相当因果関係)の認められることが必要である(最高裁判所昭和五〇年(行ツ)第一一一号・同五一年一一月一二日第二小法廷判決・裁判集民事一一九号一八九頁参照。)。

そして、労災補償制度が業務に内在ないし随伴する危険が現実化した場合に労働者に発生した損失を補償するものであることに鑑みれば、右相当因果関係の有無については、発症が業務に内在ないし随伴する危険が現実化したことによるものとみることができるか否かによって判断するのが相当である(最高裁判所平成六年(行ツ)第二四号・同八年一月二三日第三小法廷判決・判例時報一五五七号五八頁、同平成四年(行ツ)第七〇号・同八年三月五日第二小法廷判決・判例時報一五六四号一三七頁参照。)。

2  また、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものであるから(最高裁判所昭和四八年(オ)第五一七号・同五〇年一〇月二四日第二小法廷判決・民集二九巻九号一四一七頁参照。)、厳密な医学的判断が困難であったとしても、被災労働者の業務内容、勤務状況、健康状態、基礎疾患の程度等を総合的に検討し、それが現代医学の枠組のなかで、当該疾患の形成及び発症の機序として矛盾なく説明できるのでみれば、業務と発症との相当因果関係を肯定することができるというべきである。

二  高血圧性脳出血に関する医学的知見

高血圧性脳出血に関する医学的知見について、甲第三八、第三九号証、乙第三七乃至第四一号証及び弁論の全趣旨によれば、次のとおり認められる。

1  高血圧性脳出血は、高血圧者の大脳基底神経核領域に分布する中線状体動脈、視床動脈等の脳内小動脈、とくに穿通動脈と呼ばれる直径五〇乃至四〇〇ミクロンの細小動脈が血漿性動脈壊死を起こし、次いで、動脈内腔が限局性に嚢状ないし数珠状に拡張して小動脈瘤(直径三〇〇乃至七〇〇ミクロン)を形成し、その小動脈瘤が破綻することによって発生すると考えられている。すなわち、持続的に血圧が高い状態が継続すると、加齢変化の程度を超えて動脈硬化が進行するため、内圧に抗する動脈壁の形態保持が不可能となって動脈内腔が拡張し始め、これにより血管内皮細胞相互間の結合が離開し、そこから血漿成分が動脈壁に浸潤する。その際、浸潤した血漿成分に含まれる組織融解酵素エラスターゼ等によって内弾性板や中膜平滑筋細胞が融解し動脈壁全層が壊死(血漿性動脈壊死)に陥るため、菲薄化した血管壁が内圧に抗しきれずに小動脈瘤を形成する。そして、血管は更に拡張を続け、遂には破裂に至り、脳出血が発生する、というのである。

2  血漿性動脈壊死は治癒に至ることがあり、その要因としては、血圧上昇の原因の除去、高血圧を降圧剤で治療、時間の経過が考えられるとされる。右中膜平滑筋細胞の病変は、血圧を適正に下げることにより急速に回復しうるものである。また、小動脈瘤も一度形成されると必ず破裂しやすい状態が永続するのではなく、破裂しにくくなる時期があり、破裂しなかった小動脈瘤では、その腔内に生じた血栓により、あるいは血栓が肉芽組織で置換されて、線維組織が主体をなす血管結節瘤に変化すると考えられている。

3  一般に、脳出血の危険因子としては、高血圧、疲労、ストレス、生活環境、食塩の過剰摂取、低蛋白、低コレステロール、痩せ型体型、過度の飲酒などが挙げられているが、喫煙については、現在までのところ、脳出血との間に有意的な関連があるとまでは認められていない。

4  脳の急性血管病変はその出現までに非常に長い高血圧の慢性の影響が必要であり、その影響は細小動脈の中膜平滑筋細胞の病変(胞体部分壊死、虫食い状萎縮あるいは平滑筋細胞の壊死脱落)として蓄積される。脳の細小動脈の中膜平滑筋細胞の病変は累積的であり、過重負荷の最中や直後に脳出血が起こらなくても、その時のストレスの影響は蓄積される。急性血管病変は、必ずしもストレスのピークに出現するものではなく、ときにはストレスからの離脱後に出現する可能性がある。

5  康雄は三八歳で脳出血を発症したが、一般に、三九歳以下の者の脳出血の発症例は、それ以上の年齢の者の発症例と比べると非常に少ない。

三  康雄の業務内容、勤務状況、健康状況等について

1  業務内容について

争いのない事実及び証人寺門次郎の証言によれば、以下の事実が認められる。

(一) 康雄は、①出版物等の企画立案から計画作成、進行管理、原稿依頼、執筆の助言、②アルバイトの管理、③校正作業、外部の校正マンの管理、④印刷会社との交渉、⑤計数管理、⑥出版物の広告・宣伝・販売・発送・代金回収などの広範囲の業務を担当していた。

また、康雄は、仕事に対する責任感が非常に強く、常に高いレベルの仕事を追求するといった仕事振りであった。

(二) 本件発症当時の出版センターの編集者は、同センターの主任であった康雄の外は、寺門だけであり、センター長の平沢は、編集者としての経験がなかったことから、専ら営業を担当していた。また、当時、平沢がセンター長になって間がなかったことから、主任である康雄は、訴外会社等との交渉の窓口になるなど同センターの中心的役割も担わされていた。

(三) 康雄は、本件発症当時、自ら編集責任者として携わってきた人事録の制作を終え、入試問題集の編集準備や進行の遅れていた「いばらきの川」の編集の外、その次の仕事として「山村暮鳥全集」の注文を受けるべく、その企画立案等の業務に従事していた。

(四) 人事録は、茨城県内の各界で活躍している著名人の経歴等を収録した定期刊行物の昭和六三年度版である。

その編集責任者であった康雄は、その作業がピークを迎えた昭和六二年七月ころから、これに専従する態勢をとっていた。とりわけ同年一〇月二五日から同年一二月二六日までの間には、東京都内の大日本印刷株式会社内の出張校正室に長期出張し、同所において、右印刷会社から派遣された校正マンや東京で雇い入れた一〇名前後の臨時の校正マンを監督・管理するとともに、自らも右校正作業に従事する等した。

その後、康雄と寺門が昭和六三年一月一三日から同月一九日までの間、前記印刷会社においてアイ焼き校正(最終校正)を行い、同月二九日に人事録は完成した。

2  勤務状況について

(一) 甲第九、第一〇、乙第一五号証、証人寺門次郎の証言及び原告本人尋問の結果によれば、昭和六二年七月一日から昭和六三年二月一九日までの間の康雄の勤務時間は、別表「村上康雄勤務時間実績表」(但し、昭和六三年一月一三日の「退勤時刻」欄に「24:30」とあるのを「26:00」と、同「所定超え時間外労働時間」欄に「7.5」とあるのを「9」と、同「実労働時間」欄に「14.5」とあるのを「16」にそれぞれ訂正し、昭和六三年一月の「所定超え時間外労働時間」の「合計」欄に「92.5」とあるのを「94」と訂正する。)のとおりであることが認められ、乙第一五号証の記載及び証人寺門次郎の証言中、右認定に反する部分は採用できない。

(二) 本件発症に至るまでの康雄の勤務時間の状況

前記訂正後の別表に従って、康雄の本件発症までの勤務時間の状況を整理すると、次のとおりとなる。

(1) 昭和六二年七月は五日及び一二日(いずれも公休日)を除く二九日間に出勤しており、同月の実労働時間は317.5時間であり、そのうち平日の時間外労働が一一二時間、休日労働が16.5時間であった。

(2) 同年八月は二日、九日、二三日及び三〇日(いずれも公休日)を除く二七日間に出勤しており、同月の実労働時間は三一〇時間であり、そのうち平日の時間外労働が116.5時間、休日労働が11.5時間である。

(3) 同年九月は公休日六日間を除く二四日間に出勤しており、同月の実労働時間は二六七時間であり、そのうち平日の時間外労働が九九時間で、休日労働はなかった。

(4) 同年一〇月は四日(公休日)を除く三〇日間に出勤しており、同月の実労働時間は三二二時間であり、そのうち平日の時間外労働が一〇五時間、休日労働が三五時間であった。

(5) 同年一一月は全日出勤しており、同月の実労働時間は369.5時間であり、そのうち平日の時間外労働が129.5時間、休日労働が七九時間であった。

(6) 同年一二月は二七日(公休日)を除く三〇日間に出勤しており、同月の実労働時間は355.5時間であり、そのうち平日の時間外労働時間が一二九時間、休日労働が37.5時間であった。

(7) 昭和六三年一月一日から同月一一日までは、元旦から同月三日まで(いずれも公休日)を除く八日間に出勤し、その実労働時間は83.5時間であり、そのうち平日の時間外労働が24.5時間、休日労働一〇時間である。

(8) 同年一月一二日から同年二月一一日までは、一月一七日、同月二四日、同月三一日及び二月七日(いずれも公休日)を除く二七日間に出勤しており、その間の実労働時間は257.5時間、そのうち平日の時間外労働は六四時間、休日労働は11.5時間である。

(9) 同年二月一二日から同月一九日までは、同月一四日(公休日)を除く七日間に出勤しており、その間の実労働時間は51.5時間であり、そのうち平日の時間外労働は同月一七日の3.5時間のみであり、休日労働はなかった。

(三) 本件発症前七日間の康雄の勤務内容

乙第一五号証、証人寺門次郎の証言及び弁論の全趣旨によれば、康雄の発症前七日間の勤務内容は、次のとおりであったと認められる。

(1) 同月一二日は、人事録の残務整理を行ったが、所定時間外労働はしていない。

(2) 同月一三日は、「いばらきの川」の編集準備を行い、定時退勤後に寺門と社外で打合せをし、午後一一時ころに帰宅した。

(3) 同月一四日は、公休日であり、休務した。

(4) 同月一五日は、人事録の残務整理の外、入試問題集の刊行準備を開始した。所定時間外労働はしていない。

(5) 同月一六日は、入試問題集の入稿準備及び「いばらきの川」の編集打合せを行った。所定時間外労働はしていない。

(6) 同月一七日は、人事録の残務整理をした外、「山村暮鳥全集」の企画等のため、三時間三〇分の所定時間外労働を行った。

(7) 同月一八日は、人事録の残務整理及び入試問題集の入稿準備を行い、午後六時から訴外株式会社IBSサービスの接待で、平沢及び寺門とともに前年度六月出版の入試問題集制作の打上げ会に出席して水割り二、三杯を飲み、更にスナックでの二次会にも出席して飲酒した後、深夜午前零時ころ帰宅した。

(8) ただ、康雄は、早い時間に退勤したときは、「山村暮鳥全集」の企画立案などの業務を自宅に持ち帰って行う等していた。

(四) 本件発症当日の康雄の状況

乙第一五号証、証人寺門次郎の証言、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、康雄は、同月一九日の朝、疲労の様子で、朝食を取らずに出勤し、出版センターにおいて人事録の残務整理その他の通常業務等を行った後、午後四時ころ退社したことが認められる。

3  健康状態について

甲第二八、第三〇、乙第一四、第一七号証の一、第一八乃至第二〇、第二三号証、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 康雄は、身長一六七センチメートル、体重五四キログラム(いずれも昭和五九年一一月一九日の定期健康診断時、昭和六二年一〇月一五日の筑波大学附属病院受診時に計測したもの。)であり、飲酒は付き合いで飲む程度で自宅では飲まなかった。喫煙は一日二〇本程度であった。

(二) 高血圧の治療歴について

(1) 康雄は、十歳代のころから高血圧症を有していたが、特に治療は受けていなかった。

(2) 昭和五九年一一月一九日に行われた定期健康診断において血圧が一八二/一二四と高い数値を示したため、康雄は、水戸協同病院で投薬治療を受けたが、薬の服用で頭痛がしたため、治療を中断した。

(3) 康雄は、昭和六一年の定期健康診断においても、一六四/一〇八の高血圧を指摘された。

(4)① 康雄は、昭和六一年九月二四日、頭重感、肩こりのため水戸済生会総合病院を受診した。その際、血圧が二一四/一四二と高度に上昇していたものの、他には特段の異常は認められなかった。

② 康雄は、丹野院長から入院して検査及び静養をするよう勧められたが、これを断り、通院して治療を受けることとした。以後、昭和六二年五月八日までの間に、初診を含め七回にわたり医師の診察を受け、その都度、降圧剤の投与(初診時は七日分、二度目の診察時には一四日分、三度目の診察時以降は一回につき二八日分。)を受けていた。

なお、同病院において受診した際の血圧の測定値は、次のとおりであり、丹野医師から経過良好と診断されていた。

六一年一〇月一日 一七八/一二四

同年一〇月二九日 一八四/一二四

同年一二月一〇日 一五四/一一六

六二年一月七日 一五四/一〇二

同年三月二〇日 一六二/一〇〇

同年五月八日 一六四/九二

③ しかし、康雄は、昭和六二年五月八日を最後に、自らは病院に通うことなく、原告に降圧剤を受取りに行かせた(いずれも二八日分)。原告が康雄に代わって降圧剤を受け取った年月日は、次のとおりである。

六二年 六月二六日

同年 八月五日

同年 九月二五日

同年 一一月四日

同年 一二月一四日

(5) 康雄は、昭和六二年一〇月七日、腹痛のため北水会病院を受診したが、その際、二二〇/一四〇の異常高血圧を示したことから、同病院の井上医師から異常高血圧の危険性について説明を受けた上、筑波大学附属病院で精密検査を受けるよう勧められた。

(6) そこで、康雄は、同月一五日、筑波大学附属病院を受診したところ、血圧値が座位一九〇/一四〇、起立直後一七〇/一一〇、起立五分後一八〇/一三〇と高い数値を示したものの、内分泌学的検査には異常は認められなかった。康雄は、同月二三日、同病院で腹部超音波検査を受け、その六日後の再診の予約をしたものの、その後一度も同病院を受診しなかった。

(三) 康雄は、上京中の同年一一月半ばころ、発熱とともに口唇部が腫れ上がったため、東京の山桝病院を受診したが、その原因は明らかにはならなかった。

(四) 昭和六三年は、通院歴がなく、薬も処方されていない。

(五) 康雄は、昭和六三年二月ころは、疲労がかなり蓄積していたようであり、起床時間通りに起きられなかったり、公休日である日曜日に一日中寝ているときもあった。

四  本件発症と業務との因果関係

1  前記二及び三で認定した各事実を総合して検討すると、康雄の業務が本件発症に与えた影響については、以下のとおりであると推認するのが合理的である。

(一) 康雄の基礎疾病である高血圧症は、昭和六一年九月からの水戸済生会総合病院における治療により徐々に改善し、昭和六二年五月八日に血圧が一六四/九二となった段階で、完全とはいえないまでも概ね日常の勤務に耐え得る程度には安定していた。仮に、これより以前に脳動脈の中膜平滑筋細胞に病変が生じていたとしても、この血圧安定期に相当程度回復・治癒したと推認される。そして、右程度の治療を受けることは通常の業務体制の下では比較的容易であり、後記(二)のとおりの過重な業務による疲労とこれに基づく血圧の上昇がなければ、本件発症が生じなかった可能性が高いと認められるから、本件発症は、康雄の基礎疾病である高血圧症がその自然的経過として発症したものとみることはできない。

(二) 康雄は昭和六二年一〇月五日から同年一二月二六日まで連続八三日間無休の勤務状態になっていた上、この間の実労働時間(九七八時間)は、所定内労働時間(四八三時間)の約二倍(2.02倍)に達していたこと、しかも、そのうち同年一〇月二五日から同年一二月二六日までの間は、東京のホテルで単身生活を送りながら、前述のような肉体的・精神的に負担のかかる校正業務をこなしていたことに照らすと、この間の業務は、高血圧症を有する康雄にとって極めて過重な業務であったということができ、この段階で既にかなりの肉体的・精神的疲労を蓄積していたものと推認することができる。そして、右肉体的・精神的疲労により、(三3(二)(5)(6)で記載のとおり、昭和六二年一〇月七日北水会病院で二二〇/一四〇、同月一五日筑波大学附属病院で一九〇/一四〇の高血圧が計測されたように)康雄の血圧は異常に上昇し、康雄の脳血管病変は徐々に進行したが、この時期には康雄が水戸済生会総合病院から投薬された降圧剤を比較的規則正しく服用していたこともあって、未だ康雄の脳出血の発症はなかった。(なお、本件において、右のとおり、康雄の業務が過重になった時期と同人の血圧が異常に高くなった時期とが符合することは、注目に値する。)

(三) 昭和六三年になってからも人事録が完成する一月二九日ころまでの間は、相当に厳しい勤務状態が継続していたが、同年二月になってからは、康雄の所定外実労働時間はかなり減少した。しかしながら、康雄は、それまで長期間にわたって蓄積した疲労を取ることもなく、入試問題集や「いばらきの川」の編集、更には、新企画の「山村暮鳥全集」の企画立案に精力的に取りかかっており、そのため、康雄の肉体的・精神的疲労は、二月に入ってからも更に蓄積し続けていた。更に、このころには降圧剤の服用が十分でなかった可能性があり、これらの事情が重なって、康雄の血圧は高い状態が続き、脳動脈瘤が形成されつつあったものと推察できる。そして、本件発症の前夜に催された会合で飲酒したアルコールの影響が切れた際に、交感神経が緊張し、それによって血圧上昇や血管痙攣が起こって、脳動脈瘤が破裂し、脳出血の発症に至ったと考えられる。

2 このように見てくると、本件発症は、昭和六二年一〇月五日から本件発症までの間の業務によってもたらされた肉体的・精神的疲労の蓄積に基づく血圧の上昇によって生じたものであると認められ、本件発症と業務との条件関係を肯定することができる。そして、康雄の業務内容が肉体的・精神的に過重な業務であり、これが血圧上昇の最も有力な原因であったと是認しうるのであるから、本件発症は、康雄の業務に内在する危険が現実化したことによるものと見ることができ、本件発症と業務との間に相当因果関係を認めることができるというべきである。

3 この点、高血圧症の基礎疾病があったにもかかわらず、康雄が仕事を優先して病院に通わなかったことや、昭和六三年二月以降における降圧剤の服用が十分でなかった可能性を業務起因性の判断においてどのように考慮すべきか問題となる。しかし、当時康雄が出版センターにおいて中心的立場におり、康雄が現場から離れて高血圧症の入院治療を受けるとなると、出版センターの業務全般に支障が生じる可能性があったことに鑑みると、康雄が入院治療に踏み切れなかったのは、業務自体に起因したことであるというべきであるし、また、康雄の疲労が本件発症当時かなりのものであったと認められることに照らすと、降圧剤の服用不十分の可能性が本件発症に与えた影響は、康雄の業務のそれと比べれば、小さかったものと考えられるのであるから、いずれも前記相当因果関係を否定するに足りるものにはなり得ないといわなければならない。

五  以上によれば、康雄の死亡が業務によるものではないとした本件処分は違法であるから、その取消しを求める本訴請求は理由がある。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鈴木航兒 裁判官中野信也 裁判官植村幹男)

別表

村上康雄勤務時間実績表<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例